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胃酸で胃が溶けないのはなぜ?
公開. 更新. 投稿者: 1,862 ビュー. カテゴリ:消化性潰瘍/逆流性食道炎.この記事は約4分26秒で読めます.
目次
胃酸で胃が溶けないのはなぜ?― 強酸と消化酵素にさらされても、胃が自分を消化しない理由 ―

胃液は「肉を溶かす」ほど強力
胃酸は強い。
それは比喩ではありません。
胃液を満たしたシャーレの中に動物の肉片を入れておくと、一晩で形がなくなるほど溶けてしまいます。
胃液は、強酸性の胃酸(塩酸)と、タンパク質分解酵素であるペプシンから構成され、非常に強力な消化力を持っています。
それほど強い消化液に、私たちの胃は毎日・毎食さらされているにもかかわらず、
健康な人の胃が溶けてしまうことはありません。
では、なぜ胃は自分自身を消化しないのでしょうか。
答え:胃は「守られている」
結論から言えば、
胃は常に多重の防御機構によって守られているからです。
胃粘膜は、
・胃酸
・ペプシン
という強力な「攻撃因子」にさらされながらも、
・粘液
・重炭酸
・血流
・上皮細胞の修復能力
といった「防御因子」によって、自己消化を防いでいます。
この考え方は、かつて消化性潰瘍の成因を説明する理論として提唱された
「攻撃因子と防御因子のてんびん説」として知られています。
攻撃因子と防御因子の「てんびん説」
消化性潰瘍の成因は、長らく
・攻撃因子(胃酸・ペプシン)
・防御因子(粘液・血流・重炭酸バリア)
のバランスの破綻によって起こる、と考えられてきました。
胃粘膜は、正常な微小循環血流により十分な酸素と栄養を供給され、
その表面は粘液で覆われることで、胃液の直接的な攻撃から守られています。
このバランスが保たれている限り、
胃は「肉を溶かすほど強い胃液」に満たされていても、自己消化されることはありません。
潰瘍治療薬は「てんびん」をどう動かすか
この理論に基づき、消化性潰瘍治療薬は大きく2つに分類されてきました。
攻撃因子を弱める薬
・H₂受容体拮抗薬(H₂RA)
・プロトンポンプ阻害薬(PPI)
防御因子を高める薬
・粘膜保護薬
・粘液分泌促進薬
・血流改善薬
特に、H₂RAやPPIといった強力な酸分泌抑制薬の登場は、
それまで外科手術が必要だった多くの潰瘍患者を、内科的治療で救いました。
この意味で、
「攻撃因子と防御因子のてんびん説」は、臨床的にも非常に妥当な考え方でした。
それでも潰瘍は再発する
しかし問題も残りました。
酸分泌抑制薬を中止すると、
潰瘍は60〜90%という高率で再発します。
服薬を続けていても、10〜20%で再発が起こるとされています。
もし胃酸だけが原因なら、
これほど高い再発率は説明できません。
ここで、てんびん説は修正を迫られることになります。
現代的な理解:バランス説から原因論へ
現在では、胃潰瘍・十二指腸潰瘍の二大原因として、
・ヘリコバクター・ピロリ感染
・非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)
が挙げられています。
胃酸は、
それ自体が主犯ではなく、共通した「増悪因子」
と考えられるようになりました。
つまり、
・ピロリ菌が胃粘膜を弱らせ
・NSAIDsが防御因子を低下させ
その結果、胃酸という攻撃因子が影響を及ぼす、
という構図です。
胃の中はどれくらい酸性なのか
胃液の分泌状態を示す指標のひとつが、胃内pHです。
胃内pHは、
・食物の消化
・病原菌の殺菌
のために、常に強い酸性に保たれています。
空腹時の胃内pHは、おおよそ 1〜2。
これはレモン汁よりも、場合によっては強い酸性です。
それでも胃が溶けないのは、
胃粘液が粘膜を覆い、胃酸やペプシンから隔離しているからです。
胃粘液という「見えない防護服」
胃粘液は単なるヌルヌルした物質ではありません。
・胃酸を中和する重炭酸を含み
・粘膜表面のpHをほぼ中性に保つ
という重要な役割を果たしています。
胃液の中がpH1〜2であっても、
胃粘膜のすぐ表面はpH5〜7程度に保たれています。
この「pHの勾配」こそが、
胃が自分を消化しない最大の理由です。
ペプシンは「条件がそろわないと働かない」
胃の消化に欠かせない酵素がペプシンです。
ただし、ペプシンは最初から活性を持っているわけではありません。
ペプシン誕生の条件
・胃粘膜では「ペプシノーゲン」という不活性型で作られる
・胃酸により pH5.0以下になると活性化
・至適pHは 約2.0
胃粘膜や胃腺の中は、
胃粘液に守られてpH5.0以上に保たれているため、
ペプシノーゲンがペプシンになることはありません。
つまり、
・酸がある
・低pHになる
という条件がそろって、初めてペプシンは働くのです。
これも、胃が自己消化を起こさない重要な仕組みです。
PPIを飲むと消化不良になる?
PPIは胃酸分泌を強力に抑制します。
すると、
胃酸が減る → ペプシンが働かない → 消化不良になる?
と心配されることがあります。
確かに理論的には、
タンパク質消化への影響はゼロではありません。
しかし実際には、
・膵臓の消化酵素がタンパク質消化を肩代わりする
・小腸での消化吸収が主役になる
ため、多くの場合、重大な問題は起こりません。
それでも注意が必要なケース
ただし、胃酸にはもうひとつ重要な役割があります。
胃酸は、十二指腸粘膜に作用してセクレチンを分泌させ、
これが膵臓からの消化酵素分泌を促進します。
そのため、
・高齢者
・消化機能が低下している人
・タンパク質摂取量が多い人
では、PPIによる胃酸抑制が
間接的に消化に影響する可能性は否定できません。
まとめ:胃は「攻撃」と「防御」の上に成り立っている
・胃液は肉を溶かすほど強力
・それでも胃が溶けないのは、多重の防御機構があるから
・胃粘液とpHバリアが自己消化を防いでいる
・潰瘍は単なる胃酸過多では説明できない
・PPIは有効だが、胃酸の生理的役割も忘れてはいけない
胃は、
強力な攻撃因子を自ら生み出しながら、それに耐える構造を持つ臓器です。
この絶妙なバランスが崩れたとき、
私たちは初めて「胃が痛む」という形で、その存在を意識するのかもしれません。




